哲学者の三木清氏(1897〜1945)の人生論ノートの中から

(直近で興味深く読ませていただいている一書である)

嫉妬について
もし私に人間の性の善であることを疑はせるものがあるとしたら、それは人間の心における嫉妬の存在である。嫉妬こそベーコンがいつたやうに惡魔に最もふさはしい屬性である。なぜなら嫉妬は狡猾に、闇の中で、善いものを害することに向つて働くのが一般であるから。

 どのやうな情念でも、天眞爛漫に現はれる場合、つねに或る美しさをもつてゐる。しかるに嫉妬には天眞爛漫といふことがない。愛と嫉妬とは、種々の點で似たところがあるが、先づこの一點で全く違つてゐる。即ち愛は純粹であり得るに反して、嫉妬はつねに陰險である。それは子供の嫉妬においてすらさうである

嫉妬・・・ジェラシー

実感的に言えば、実に厄介で面倒くさい!中でも”男のジェラシー”は始末にならない

確かに、”陰険”であり、時として滑稽にすら思えるのも確かである!

『善いものを害することに向かって働くのが一般的である』・・・まったく言い当てている

嫉妬は自分よりも高い地位にある者、自分よりも幸福な状態にある者に對して起る。だがその差異が絶對的でなく、自分も彼のやうになり得ると考へられることが必要である。全く異質的でなく、共通なものがなければならぬ。しかも嫉妬は、嫉妬される者の位置に自分を高めようとすることなく、むしろ彼を自分の位置に低めようとするのが普通である。

嫉妬・・・ジェラシー

単に羨むのではなくライバル心でもない、人を陥れようとする

人を害することを喜び、しかも陰湿で用意周到であるからたちが悪い!

『彼を自分の位置に低めようとするのが普通である』・・・まったく身に覚えがある

自信がないことから嫉妬が起るといふのは正しい。尤も何等の自信もなければ嫉妬の起りやうもないわけであるが。しかし嫉妬はその對象において自己が嫉妬してゐる當の點を避けて他の點に觸れるのがつねである。嫉妬は詐術的である。

嫉妬・・・ジェラシー

自分に都合に云い「嘘・うそ」を何のためらいもなくつくものだ

そして、自身の無さからか虚勢を張りる様は、まるで負け犬の遠吠えのように見える!

『嫉妬は詐術的である』・・・まったくその通りであろう

 

卑しく、濁った心は、他人の正しさを認めたくない

常に自分が正しく、自分が優れていることを吹聴する

また、人の幸福を喜ばず、人の不幸を喜ぶ

 

そこで・・・

「反面教師」という四字熟語を思いだす

「人の振り見て我が振り正せ」とのことわざが思い起こされる

さらに謙虚に言えば・・・

「我以外皆我師」

これは作家:吉川英治氏の言葉である

 

何歳になっても心だけは、新鮮な清々しさだけは保ち続けたいものだ

何歳になっても基本の姿勢だけは、謙虚であり続けたいものだ